韓 丘庸





文学的効果とは何か(Ⅰ)
              -「翻訳」と「翻案」とのあいだ-



 

 生真面目に翻訳した作品の如何に味気なく無味乾燥なものであるかは外国文学の「翻訳」ものを読むと解る。
 それに比べ「翻案」は非常にリズミカルで気持ちがよい。それは原作のジャンルやその本のシリーズの意図や性格、グレードや作品の分量などによって<言葉の選択肢>も異なってくるから、翻案の方が訳者当事者の半創作的手法がらみの個性も有って、寧ろ読み易いといわれるのは頷ける。それ程翻訳ものの中にはぎこちない訳文が多く、日本語そのものの能力を疑われるものも少なくない。
 先だってKBS京都が、韓国映画の連続物ミニシリーズ<
바람의 아들>(風の息子)から、「懐かしの故郷」を放映していた。ここにはイ・ビョンホン、シン・ヒョンジュン、キム・フィソンなど韓国の今を走る錚々たる人気俳優が爽やかな秋の高原を闊歩しながら、時には笑い、時には悲しみ、時には怒りをぶっつけながら精力的に演技していた。わたしはこの映画のストーリーもさることながら、対話する俳優の韓国語の快さと字幕に流れる対話の日本語の流暢さの虜になり、それからは日本語の器用な表現を不思議な面持ちで眺めながら画面を追ったのである。
 その中のいくつかを取り上げてみる。

   싹 가져간다.                 
みんな売れるんだ。
   그까지것 얼굴이냐.            
おまえの顔はまあまあだ。
   얼굴이 추렸네.               顔色が悪いな。
   아니야 괜찮아!               
結構よ。もういいわ!
   내가 어떻게 나가겠나.          
どうして出馬できるんだ?
   내가 뭐라고 했니.             
何を怒ってるんだ。
   언제부터 그런 말을 좋아하냐?     
いつからおまえはそんなことを言うようになったんだ?

 言語は変遷する。限りなく変遷する。時代によって、社会背景によって、家庭環境によって、対話の内容によって言葉の意味の解釈の仕方にも変われば、それを咀嚼する方法も異なる。
 以前映画「オールイン・ワン」で、こんな字幕があった。男が恋人と夜の長い並木道を歩いてきて、やっと恋人の家まで送ってくる。夜もずいぶん更けたからといって、玄関先で握手をして別れる時に<
안녕히 주무세요
>とそっと手を差し伸べて、優しく挨拶する。字幕には「(もう遅いから)早く入りなさい」と出た。それがいかにも自然で無理のない対話の中で「おやすみなさい」でも「さようなら」でもないところに大きな親近感を覚え、一人感動し納得したのを覚えている。
「翻訳」と「翻案」はれっきとして異なるが、対話が原作の意図を壊さない限りにおいて、どのようにアレンジするか、それは単に訳者が素敵な言葉を見出すためにエネルギーを使う「語彙力」の発露にも関することであるが、もう一つは、翻訳者の感性、殊に文学的感性と文学的効果をもって原作者の心の境界線をどう越えるかと言うことではないだろうか。



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