韓 丘庸





「ゴーリキイの最後」(Ⅰ)


 ソヴェト政権時代、帝政ロシアから革命までの橋渡し的存在として一世を風靡したソヴェト最大の国民的作家マクシム・ゴーリキイがどのようにし晩年を迎え、どのように逝ったか。私たちはその舞台裏を一部の「地下文学」の中での憶測でした判断することができなかったし、その資料すらも入手は困難を極め、情報も限られていて、その事実は今でもタブー視されており、不透明ではある。
 世界文学辞典や、いくつかのロシア文学史においても彼の死に就いては一切を触れなかったり、触れても省略化して記述するに留まっている。増してや彼の作品の翻訳されたものを見ると、「あとがき」や訳者の解説の中には全く一言も触れていないものが多い。増してやソヴェト政権健在のころは、連邦に配慮しての記述になり、その表現も様々であった。
 ブロークのように「ゴーリキイこそ運命によってナロードとインテリゲンツイアを繋ぐ重責を担わされた存在だ」と賞賛する一方で、藤沼貴は「<社会主義リアリズム>の父。20世紀最高の作家という評価を受けているが、ソ連崩壊後文学史におけるその特権的な地位は大きく揺らいだ。しかし、ナロードの中から生まれ、ソヴェト文学に絶大な影響を与えた作家であることは変わりない。」(藤沼貴・小野理子著『ロシア文学案内』00'、岩波文庫)と、些か突き放した形で記述している。
 またロシア文学の権威者である米川正夫は、
「新しい時代の精神と気分を表現する人としてはゴーリキイのように天才でも時代の墻壁を越すのは困難とみえて、最後の大革命の場など澎湃たる新勢力の来潮を感じせしめるべくあまりに弱々しいものになっている」(米川正夫著『ロシア文学史』1955、角川文庫)と指摘する。
 厳しく冷静に見ているが、一般の人々には難解で抽象的な表現のため、ロシア文学の研究者以外には何とも理解しがたい。
 しかし、マーク・スローニムだけは「ロシア・ソヴェト文学史」(池田健太郎・中村喜和訳、1976、新潮社の中で唯一ゴーリキイの死を述べている。
「共産党に依れば彼は政治上の敵の陰謀で死んだ。*注、1937~38のモスクワ裁判の間に、秘密警察の前長官ヤーゴダは、自分がゴーリキイの侍医たちにゴーリキイと彼の息子マクシームを毒殺するように「命じた」という<自白>を行った。裁判記録は使用された薬として樟脳を上げている。このミステリー事件に関連して、S・レーヴィン博士は処刑され、D・ブレトニョーフ教授はシベリアへ送られた」と。
 しかしこの事実に就いて伝える正式な伝記文学らしきものは現ロシアでは出版されていない。当然これは国家的統制を受け、諸外国に漏れることを極力避けたためであり、今後の大きな課題となるだろう。)







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